飽くなき麹への研究心と 不断の努力を積み重ね、
薩摩地において 焼酎の発展に尽力した男
初代 河内源一郎(1883~1948)
明治16年、広島県(現在の福山市)に代々続いた味噌・醤油屋「山田屋」の長男として源一郎は誕生。
醸造中の大きな樽がいくつも貯蔵されている環境で育ったため、自然と微生物のおりなす『発酵』という現象に強い興味を抱くようになっていった。
大阪高等工業学校醸造科(現・大阪大学発酵工学科)へと進んだ頃、家業が傾き始め廃業へと追い込まれてしまい、家計のために大学進学を諦めた源一郎は高校卒業後、大蔵省の役員となり鹿児島・宮崎・沖縄の味噌・醤油の製造指導にあたる任務につくこととなった。
ここから麹の神様としての第1歩を踏み出すこととなる。
麹研究のきっかけ
焼酎に適した麹菌を発見し、
第一次焼酎ブームを巻き起こす。
最初は敵対視していた地元の酒造の杜氏たちも、源一郎の真摯な姿や仕事振りに胸襟を開き、こんな悩みを持ちかけられた。
「今年は残暑が厳しく、せっかく作った焼酎が腐り、歩留まりが悪いうえ、味も良くない。」
ここで、源一郎はある事に気付いた。
「味噌や醤油だけじゃなく、焼酎も麹で決まる。 薩摩の暑さが原因とすれば…暑さと使用している麹の相性が悪いのではないだろうか?南国薩摩の焼酎に寒い地方の日本酒に使われている黄麹を使うこと自体、無理だったのだ!」と。(当時、焼酎造りには黄麹が一般的に使用されていた)
そこで、薩摩の気候にも耐えられる麹があれば、美味しい焼酎が安定して造れると考えた源一郎は、薩摩よりも暑い沖縄の酒である泡盛の種麹菌を取り寄せ、来る日も来る日も実験を続けた。
泡盛の種麹は黒麹で、それまでの黄麹とはだいぶ性質が異なっていた。 源一郎は毎日顕微鏡にかじりつき、試験管やピンセットを手に研究を続けたが、相手はカビであり、絶えず増殖し続け一瞬の油断も許されなかった。また、温度・湿度が大きく作用するため、源一郎は人の体温なら一定のため麹菌も安定するはずと、自らを実験材料にし、培養シャーレを懐に抱き続け肌身離さず一緒に生活を始めた。昼間はもちろん、就寝時さえ離さなかったという。
そして明治43年、三年にも及ぶ苦心の研究の末、ついに源一郎は泡盛の麹菌から焼酎に一番適した泡盛黒麹菌(学名:アスペルギルス・アワモリ・ヴァル・カワチ)を培養することに成功。
この麹菌によって焼酎の収得率は大いに改良向上。泡盛黒麹菌によって造られた焼酎は『ハイカラ焼酎』と呼ばれ人気になり、瞬く間に九州全土に普及した。
新種の麹菌の発見
突然変異によって生まれた優れもの
『河内菌白麹』
『ハイカラ焼酎』の少々クセが強すぎる味に不満を感じていた源一郎は、引き続き研究を続けていた。
大正13年のある日、培養中の食パンに見慣れない淡褐色のカビが繁殖しているのを見逃さなかった。
このカビを培養して麹菌にし、知り合いの杜氏に頼んで焼酎を造ってもらうと、黒麹で造った焼酎よりも味も香りもまろやか美味しい焼酎が出来上がったのだ。
源一郎はさっそく鹿児島高等農林(現:鹿児島大学農学部)の友人である西田教授にこの麹菌を見せたところ、
「新種に間違いなか!すごい!大発見じゃなかですか!」と私の手をとり興奮を抑えきれない様子だった。
この時源一郎は、この麹菌が新種であること、 “泡盛黒麹菌の突然変異”によって生じたものだと確信していた。
しかし、この大発見もほとんどの学者たちに無視され、全く相手にされなかった。
学会での評価等よりもっとショックだったのは、地元の杜氏や酒造家に新種の麹菌が受け入れてもらえなかったことだった。
彼らは、すでに十分高い商品価値を得ている泡盛黒麹菌を捨て去ってまで、品質が良いとはいえ、製麹が難しい新種の麹菌を使おうとは思わなかったのである。
そして、この新種の麹菌は『河内菌白麹(かわちきんしろこうじ』と名付けられた。
河内菌白麹は、醸造が難しいものの収量も多く、甘口で味わいも軽く、品質も格段に向上した焼酎ができるようになった。
さらに、糖化酵素の他にクエン酸もつくるため、腐敗菌を強力に抑えるという今までの麹菌とは一線を画した優れものだった。
当初は、必要性を疑問視していた九州全土の杜氏・酒造家たちも徐々に河内菌白麹を使用するようになっていったのだった。